蓬莱は舞う

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タイヤがかすかにすり減る。ライトに照らされた公道はそれ以上先を見せることはない。少し先の未来だけを見せて、今来た道を忘れさせる。車を公園のすぐそばに止めて、客が来るのを待つ。俺はカバンの中から「ヴィヨンの妻」を取り出して、栞の挟んだページを開く。
俺は自分ではかなり寂しがり屋だと思っている。だが、とても親しい友人がいるわけではない。大学時代はよく一緒に暮らす仲間はいた。昼食もともにするし、講義も一緒に受けたりした。それでも、友人からプライベートで遊びに誘われたことはない。一緒にいた仲間は別の友人を誘って遊ぶ。もちろんわざと避けているわけでは決してないはずだ。ただ俺は昔からこういうタイプの人間だ。なぜか周りから優先順位として、低く無意識に思われるらしい。
俺は寂しさを紛らわすために人の温もりといつも触れ合えるタクシーの運転手になったのだ。しかし、今日みたいにあまり客の来ない日もある。そんなときはいつも太宰治の小説を読むことにしている。俺は保守的な方だ。だから、スマートフォンなどという四角いものを認めることはできなかった。生活のために持ってはいるが、頻繁に連絡が来るわけでもない。たまに実家の方に電話するときだけ使う。少し前までは大手キャリアのものを使うとあまり使わないにもかかわらず、多く料金を取られていたらしたが、今は格安のものがあるのでありがたい。
俺は自分のことを知的だと思っている。それで周りの人間にマウントを取るわけはないが、優越感に浸ることはある。自分は他人よりほんの少し高尚である。この客観的に見たら恥ずべき自尊心が俺の孤独感を和らげるのは言うまでもない。
「ヴィヨンの妻」を読むのはこれで二度目だ。太宰の虚無的で退廃的な作風が好きなのだ。太宰の人となりのすべてに共感するわけではないが、彼のことは尊敬している。「晩年」のころから洗練された文体は秀逸だ。孤独をほんの一瞬でも忘れさせてくれる。そんな気がするのだ。
止めてから2時間半経ったとき、ひとりの女性が乗ってきた。彼女は「青山まで」とか細い声で行き先を伝えた。初乗り区間内だ。運転中、俺は彼女に話しかけることにした。俺はどんな会話にも適応できると自負していた。見た感じでは30代前半。質素なワンピースに薄化粧をしているが、マニキュアを塗っている。こんな女性にはおすすめの喫茶店の話題がいいだろう。
俺は五反田の最近できたばかりの喫茶店の話を振った。しかし、彼女は何も返事しない。ああ、俺はやっぱり嫌いだ。彼女は手の中の四角い機械に夢中だ。ソーシャルゲームというのに目が釘付けのようだ。最近多くなった。タクシーでせっかく人を載せても、会話がないことも。文化の違う外国人訪日客ならまだしも、同じ日本人に無視されるのは辛い。
俺は気を取り直して、音楽に耳を傾けることにした。車内にビートルズの「イエスタデイ」を流す。すると、不意に女性が口を開いた。「わたし、それ嫌いなので他のに変えてもらってもいいですか?」イエスタデイが苦手だなんて。まったく今日は調子が狂う。保守的な俺はあまり聞きなれない最近のバンドのものに変えることにした。よくわからなかったので、Spotifyでシャッフル再生してみた。「お客さん、これとかどうです?」返事はない。手を千手観音のように動かしているようだ。
青山についた。今流行りのキャッシュレス決済のようだ。俺は不慣れな機械を取り出して対応した。彼女は5°程度会釈して去っていった。この辺はこんな夜でも活気があるように感じる。俺は近くの駐車スペースに止めて、続きを読み始めた。
ドアがどんどんどんと叩かれる。外にはヤンチャそうな大学生と酔いつぶれたOLがいた。本に集中しすぎて気がつかなかったようだ。俺はドアを開けて、2人を後部座席に座らせた。男の方が行き先を告げる。江戸川区のようだ。ほんの少し長いドライブになるな、と思いながら車を走らせた。
週末だから羽目を外したのであろうか。OLは目覚める様子がない。大学生はスマホをいじりながら、OLの太ももあたりを触っている。ミラー越しに見る光景は興ざめだ。どうも彼の頭にはタクシーの運転手という存在がないらしい。見られても構わないということか。
俺はこの人生で性欲というものを感じたことはあまりない。人並みに彼女はいたことはあるし、そういった経験をしたこともある。しかし、不思議とそこまで感じないのだ。だから、今大学生が後部座席でしていることにも冷静に見てられる。古代ギリシアのストア派さながらだ。
大学生はスマホをいじる手を止めた。インスタグラムという写真をシェアするアプリを見ているようだ。急に横に動かしたり、縦に動かしたりしている。OLが唸り声をあげた。次の信号を超えたら目的地だ。
大学生は律儀にお釣りが出ないようにぴったりをくれた。そして、2人はマンションの方は消えていった。今日の仕事はこのくらいにすることにした。空は未だ明けず。また、少し前の未来だけ照らされた道を進んでいく。タイヤは今日も少しずつ擦り切れていく。
今日は週初めだ。だから、新宿には客は少ないだろう。羽田空港の近くに待機することにした。今日は「人間失格」を読むことにした。太宰が太宰らしくいられた作品である。重厚であっさりと、シリアスさが逆に軽妙に。客が来るまでの暇つぶしだ。
空港とはおもしろい。いろんな種類のニンゲンがいる。スーフィズムが如く回り出す人々。彼らの文明では当たり前なのだろうかと不思議に思う。たぶんそんなことはないだろうが。あるいは、大声で彼らの言語を話す人々もいる。
タクシードライバーの中にもおもしろい人が多い。たまに会社で会う人もいるが、急に時の政権を非難したりする。景気が悪いのはアイツらのせいだ!とか、外国のサービスを入れようとしている!とか。なんでも、Uberや滴滴出行などの配車サービスのことを言ってるらしい。
俺はタクシー業界はかなり守られていると思っている。新規参入は基本ない上に、白タクは禁止だ。配車が一部の地域で始まるのは時代の流れだから仕方ないと思う。何も変わらない業界の方が問題だと思うが、俺は保守的な知識人と自称しているからこのままでいいとも思う。ここまで甘い蜜を吸えるのは日本くらいだろう。
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